8月30日「戦後70年のメッセージ・・・平和国家であり続ける願い・・・」

はじめに ―戦後70年の始まり―

1931年9月18日の満洲事変に端を発する日本の戦争は、15年にわたりアジア・太平洋に繰り広げられ、名状し難い破壊と混乱をもたらしました。この無謀な 日本の侵略戦争に終止符を打ったのは、「ポツダム宣言受諾」のご聖断でした。1945年8月15日に玉音放送された昭和天皇の詔勅はその象徴です。戦争の勝敗という文脈では、この玉音放送は「敗戦宣言」の意味を持っていたと言うことができるでしょう。

それは、戦後70年の始まりでもありました。日本がどのような国に変貌するのか、敗戦の衝撃によって茫然自失、あるいは、明日からの糧に当てもなくなった国民には何も見えていなかったのではないでしょうか。
そのような日本、日本国民が再生していくための羅針盤は、終戦の詔勅とその後行幸、そして講和条約締結に導こうとする吉田茂当時総理大臣のリーダーシップを顕わす施政方針演説でありました。そこには、「日本の国のかたち」が示され、「国民の努力をかき立てる振作」がおこなわれ、そしてその象徴が「昭和天皇が示された言動」ではなかったでしょうか。

1 日本の国のかたち

昭和24年11月8日の第006回国会本会議において吉田茂当時総理大臣は、

「さきの戦争において、わが国の指導者が国際情勢に十分の知識を欠き、自国の軍備を過大に評価し、世界の平和を破懷してはばからなかったことが、結果として日本の歴史を汚し、国運の興隆を妨げ、国民に子を失わしめ、夫を失わしめ、親を失わしめ、世界を敵として空前の不幸をもたらし戦争に導いた責任は免れ得るものではありません」

と、施政方針を述べています。昭和26年8月16日の第011回国会本会議においては、
「世界大戰の記憶、戰争による憎悪、仇敵、不信等、国際間の悪感情は容易に忘却するものではなく、この悪感情は、現に深刻複雑な国際関係となって世界平和の確立を妨げております。別けても、日本が侵略、侵攻した諸外国の対日感情は、国家間、国民間に悩ましい嫌悪さえ生む現状を醸しております。この現実は戦争の常でもあり、決して消滅するものではありません」

と演説し、講和の厳しさを示唆しております。

従って、日本との講和を受け容れるに至った国際社会に対しては、講和時の条件を実証していかなければなりませんでした。その最も重要な条件こそ、日本が二度と戦争を引き起こさない国家に変貌することでありました。それが文章や言葉の上だけではなく、「日本の国のかたち」を示し、そのイメージの具現が求められたわけです。その「日本の国のかたちが」が「平和国家」でありました。

平和国家を造り上げることは一朝一夕にして成りません。誓約の証は、国民が一丸となって努力を注ぐ姿を国際社会に見せることでありました。重ねて、その証となる成果が戦後70年であったと申し上げたいのです。

2 理想の国造りを目指して

フランスの市民革命を嚆矢とする近代国民国家誕生以降、欧米の国々では、主権、領土、国益の獲得、およびその拡大のため、「戦争は他の手段をもって行う政治の継続である」と謳い戦争を正当化した「戦争の世紀」とよぶ時代精神を盛んにしてきました。
欧米に倣って明治維新を果たした日本は、さらに、欧米同様、他国に対する侵略を是とし、日本の歴史において豊臣秀吉が犯した戦争と似て非ならざる軍事力の行使をアジア・太平洋に展開し、日本人にはもとより他国においても多くの人々に対して人道に背く殺戮、破壊などの災禍を及ぼし、耐え難き不幸におとしめました。

日本および日本の国民は、この侵略行為を痛切に反省悔悟するとともに、相互の友好が成熟した時代にあっても謝罪の念を抱き続けなければならないのであります。忘却が再び災禍をもたらさないよう、思いを強くするため反省を繰り返すことは、平和国家の建設に努力を注ぎ続ける私たちの義務であり戦争を起こした者の責任でありましょう

この心意を礎にして戦後70年は始まりました。

「終戦の詔勅」にいわく、

「国際社会の信用を得る国家再建のために、皆が一致団結して努力するにあたり、守るべき道を踏み外さず歩むことを子々孫々ともに心すべきであり、常に任重く道のりは遠いが道義に篤く志操堅固であれば国際社会に遅れず共に歩むことができる。」

とあります。この詔勅が平和国家建設の精神を諭示し、昭和天皇から今上天皇へ引き継がれた、戦後70年の日本を象徴する平和主義へと深化してまいりました。

新憲法は、私たち日本人が築き上げるべき国の姿を描き、努力する方向を一層明らかに致しました 。そこでは、何人も否定できない平和主義と民主主義の理想に向かう国造りを誓約しています。憲法前文では、再び戦争を起こさないことを決意し、平和な世界において享受できる国の権利と義務と責任を確認しております。そして、私たちは憲法第二章の戦争放棄を謳った第9条において、重ねて、自衛権の行使とそのための専守防衛以外の対外的な武力行使との決別を決意したのであります。

日本国新憲法が占領軍の押し付けによって起草された、という理由で憲法改正を声高に言う人々もいます。その心情も理解できます。

明治維新はペリーの黒船による砲艦外交から始まりました。戦後70年の始めに日本の時代精神をコントロールしたのは占領軍司令官マッカーサーでありました 。

開港、開国しなければ目に物を見せてくれるという黒船の空砲射撃から始まった、二丁拳銃をかざして意思を押し付けてくるアメリカ流のやり方に賢明な対応を示し得たのは、江戸幕府が、武家集団、即ち軍事の専門家集団であったことが幸いしました。それは、パワーポリティックスの脅威を認識できる武力集団が日本の外交の正面に存在したからであったと言えるでしょう。

他方で、日本の敗戦と占領統治は、日本人が劣等意識と戦争の後遺症となるPTSDにさいなまれることになる出来事でした。それは、占領軍司令官マッカーサーの厚木基地に降り立った姿、振る舞いを目の当たりにした日本人の感情をも刺激しました。

そのイメージを持つ日本国国民には、敗戦国日本の天皇が自ら望まれてマッカーサーを訪問し会談されることについて、期待よりも危惧が先に立ったはずです。それは、平易に申し上げれば、天皇陛下がいじめられるのではないか、辱められるのではないかという国民の心に湧いた不安と心配でありました。

しかし昭和天皇は、赤心をもって気負い無く救国のリーダー となられたのであります。昭和天皇の国民を思うお気持ちが日本国のリーダーシップである、と、会見においてマッカーサーの尊敬と信頼を自然体で引き出してしまったのです。今上天皇、皇后両陛下は、昭和天皇の志しを継がれ戦後70年の半分の年数を尽くされてきました。この昭和、今上両天皇のご尽力がようやくに日本の国際的な立場を名誉あるものと成されたと思量いたします。まさにそれが両天皇の、わたしたちが倣うべき平和主義であります。

この平和主義の理想に向かう政策の具現は、占領下の日本を講和条約へ導く過程において、吉田茂当時総理大臣の国会における所信表明演説において幾度か繰り返されました。その初心に還ることこそが、ここに戦後70年のメッセージを発信するに当たり指摘しておきたいことであります。

3 「日本の国のかたち」を求めて

戦後70年のスタートであった終戦の詔勅の具体化と実行は、講話条約締結にとって必要な、吉田茂当時総理大臣が国造りのコンセンサスを求め続けた、平和国家のかたちを具現することでもありました。

日本の平和国家を目指す道は、新憲法に宣言されている前文および第2章9条戦争放棄に凝縮されていることを既に申し上げましたが、さらには、世界の文明と平和と繁栄に貢献していく日本国国民の決意を行動によって明らかにすることでもありました。「専守防衛を超えない軍備を保有すること」がわが国安全保障の基盤的防衛力であり、「外征軍を保有しないこと」こそ世界の信頼を獲得する所以としてこの戦後70年間貫いて来た日本の安全保障政策であって、しかも外国と武器を交えたことがなかったという実績がその証明であります。この事実は、日本が平和国家として世界に誇るに足ることでもあります 。

国会における吉田茂当時総理大臣の施政方針演説の要旨は次のとおりでした。

「戦争放棄に徹することは、決して自衛権の放棄を意味するものではありません。わが国の安定的な安全保障は、国民が自ら平和と秩序を尊び、重んじ、価値観を共有する他の諸国とともに国際正義にくみする精神、態度を内外に明瞭にするところに根ざしております。そして、国民が世界平和のための貢献を惜しまない姿勢を内外に示すことによって必ずや報われる平和主義の基本理念であります」

さらに、吉田茂当時総理大臣は、

「もし日本に軍備が無ければ、自衞権があっても自衞権を行使する有効な手段が無い事態を招く危惧が生じます。そこで、脅威が及ばないように、我が国が専守防衛に徹し自衛権行使に必要な自衛手段を保有することは国内外の認めるところであります」

と日本が必要最小限の自衛力を保有することを肯定しております。

吉田茂当時総理大臣は、重ねて、

「世界には、無責任な武力行使や殺戮、破壊を企てる国家や集団が存在、跋扈して国際秩序に挑戦しております。このような情勢のもとで平和国家を維持するためには、日本一国だけで外部からの攻撃に対処することが困難な現実と将来の防禦手段として日本にアメリカ合衆国の軍隊駐留を希望し、受け入れてまいりました」

と述べています。

この吉田茂当時総理大臣のメッセージは、日米安全保障条約が、日本の平和国家としての努力に重ねて、冷戦における日本および周辺地域の平和と安定を保障する結果をもたらすことを期待していたと読み取ることができます。
日本は「武力をもって国際紛争を解決することを放棄し、個別的自衛権の行使を貫く専守防衛に徹する」が故に、アメリカとの同盟に依存する構想 は、戦後70年の我が国の安全保障のもう一方の重要な要となったのであります。吉田茂当時総理大臣は、

「アメリカ合衆国は、地域と日本の平和と安全のために一層の貢献を果たしていくことでありましょう」

と付言して、日本の安全保障環境の安定的な維持を期したのであります。

そして吉田茂当時総理大臣は、日本固有の自衛権を整備しておくことに肯定的であったものの、それだけで国の安全保障が満足されるとは考えていませんでした。即ち、

「また国内の治安は自力をもつて当るべきは当然でありますが、外部からの侵略に対して集団安全保障の手段をとることは、今日の国際システムの通念であります。新たな脅威が跳梁跋扈する国際情勢下、日本が、集団安全保障にくみして足らざるを補完することは当然であります」

と述べているのであります。

今日、世界で自己完結する軍事力を保有している国は、アメリカ、ロシア、中国といった軍事大国であって、それでもまだ不足を整備強化しているのであります。先の戦争を真摯に反省するのであれば、日本がこれらの軍事大国並みに防衛力を保有することはありえず、また戦後70年間に目指してきた平和国家建設のためにも体制を変えることは考慮できません。

また、日本は、日露戦争に勝利して得た大国意識によって諸国をリードする立場を自負してきました。日本が戦前に抱いていた、勝ち目の無い、連合国を相手に回した戦争を仕掛けた思い上がりは、敗戦によって一気に「負い目」に変じました。そして、戦後70年間、「国際社会に習い」、「諸国の信義に期待して」、個別的自衛権の行使のみを貫いてきたわけであります。

日本の平和国家建設の第二段階こそ、成熟した戦後世代の国民のコンセンサスをもって、戦後70年にして始まる「日本の国のかたち」を再確認し、平和国家としての安定感と完成度を増していく時代ではないでしょうか。戦後70年のメッセージは、そこに思い入れがあり、将来を次世代に託する玉稿でなければなりません。

そこに含まれるべき事項の一つが「戦後70年の日本が平和維持を果たしてきた国の姿」を国際社会に伝えることであります。奇跡的な平和を実現した今日を多くの諸国に伝え、日本と同じような生き様ができる国をひとつでも増やしていくキャンペーンができないでしょうか。

国際情勢がそれを許さないとするならば、国民がその実態を知るべきであります。戦後70年、日本は、平和な時を過ごしてきました。しかし、冷戦時代の北西太平洋域におけるソ連との対峙、朝鮮戦争時のひっ迫した北朝鮮軍の朝鮮半島南進、これらに伴う脅威の現象は、今日、脅威と言われている中国の進出、北朝鮮の軍事的脅迫と、どちらの脅威度が高いのでしょうか。
東西対立冷戦期の諸現象下における日本の、および、日米、ならびに、西側安全保障体制が勝利したことは、日本にとって戦後70年の体制が間違っていなかったことの証左でもあります。戦後70年の評価の上に立てば、そして、現在と将来を洞察することによって、国民が「この国のかたち」をイメージし、一層の安定的国家運営の知恵を絞り出すことができるでしょう。

集団的自衛権の行使は、国家はもとより国際社会の安全保障のために、新たな国際システムが深化していくことを期待して、国民の総意で決断していくことが望ましい課題であります。冷戦時代に比べ、それ以上に脅威が身近に迫っているのでしょうか。朝鮮戦争時代のように、北朝鮮の脅威が目前に迫っているのでしょうか。

今や国際社会にとって真の脅威は、国際秩序への分別と良心無き挑戦であります。隣国との主権や領土の拡大を企図する伝統的戦争は、冷戦によって終止符が打たれたと考えたのは錯覚だったのでしょうか。少なくともヨーロッパにおいては、先進国間の伝統的戦争生起の蓋然性は消えています。北東アジア、東南アジアの地域において存在する脅威の存在が伝統的戦争の蓋然性を高めているとすれば、冷戦期同様、日本国国民の個別的自衛権のための明確な防衛力と意志の強化、再構築を図らなければなりません。
別けても、日米安全保障条約は、国際社会の未来を見据えて、地球規模の有効な安全保障システムに進化すべき基盤となるよう、現実に対応しつつ、堅実な発展のために思考すべきであると考えます。それがとりもなおさず、北東アジアおよび東南アジア、西太平洋地域から太平洋全域へ、ひいては世界の平和と繁栄の大前提となるのであります。

他方、国際連合は世界最大の、また最高の安全保障機構でありますが、全ての安全保障に活路を求めようとするには、安全保障常任理事国体制を始め、仕組みの進化が及んでいない側面を否めません。戦後70年を経過しながら、地球上の戦争が絶えず、世界の諸地域において、安全保障に関わる新たな国際システムが国連を補完するという文脈において構築されている現実は、吉田茂当時総理大臣の国会における施政方針演説の主旨と変わっていないのであります 。日本の安全保障の道として、戦後70年の節目は、日米安全保障体制をさらに磐石とする多国間システムに進化させる将来を考慮していかなくてはならない示唆を与えているのではないでしょうか。

国際社会の秩序を混乱させる新たな脅威、騒乱が多様化し、さらには災害も異常に多発する傾向にあり、国際社会においては、軍事力の役割が多様化しております。戦後70年のスタート時においても、吉田茂当時総理大臣は、講和条約の要件として、日本が平和国家を目指す限り、将来的に、国連はもとよりどのような形で国際社会の平和維持に貢献を果たせるかが重要な課題となるであろうと示唆しております。
講話条約締結前後に示された、国際貢献に関わる日本のかたちについて、独力の防衛については、国力に応じ自衛力を漸増する基本方針を貫いていくとともに、国力の許容範囲において、日本と価値観を共有する、今日的にはグローバル・コモンズに関わる集団安全保障体制の構築に対する寄与を考慮し、そのためにも自からの手によって自からの国を守る体制を速やかに整備補完することが国際社会に復帰後の平和国家日本の当然の責務 であると指摘しているのであります。

さらに引用を続ければ、

「日本が講和条約締結によって国際社会への復帰がかなっても、当然、条約は和解と信頼が根底をなす精神に満ちているのであるが、平和條約を締結したからといって、日本が敗戰国である事実を解消するわけにはいかない 」

と、戦争の過誤について戒めています。その戒めの指摘があるからこそ、戦後の日本の姿、あり方についてのメッセージを繰り返す必要があるのではないでしょうか。

その、

「誠実な姿勢こそ、戦争から平和、平和から戦争へと歴史上繰返された悪循環を断ち切ろうとする平和国家の主張を国際社会にアピールする日本の国のかたちであります。それは復讐の平和ではなく、正義の平和であると言い、イギリスの講和条約におけるヤンガー代表は、英国が伝統的に日本と利害を共通にし、日本国民に友情を持った。不幸にして日本の戦争によって伝統が破られた。しかし、英連邦は日本軍の残虐暴行を決して忘却するものでないが、今や日本との従前の友好関係をとりもどすことができると信ずる」

とスピーチがあったことを講和条約調印に赴いた吉田茂当時総理大臣は回顧している のであります。

戦後70年に当たって発信するメッセージには、国際社会に対して日本の平和主義をアピールすることと、国内に向けて平和国家建設に対する国民のコンセンサスを形成する二つの要素が必要であります。

吉田茂当時総理大臣が国際社会と日本国民に示した日本の国のかたちは、戦後70年間、1931年9月18日の満洲事変に端を発するアジア・太平洋に繰り広げた、15年間にわたる名状し難い破壊と混乱をもたらした無謀な 日本の侵略戦争という歴史認識に基づく、日本と日本国民の贖罪の証となるものでもあり、平和国家実現の象徴であります。
昭和天皇が発せられた終戦の詔勅に、「任重く道遠し」、とありますが、この戦後70年の節目に在って、かえって戦争との距離を縮めようとする、集団的自衛権行使容認への道筋が開かれる法案の成立が急がれておりますことは、究極の平和への道のりが遠く、紆余曲折する兆候でもありましょう。

理想とする平和国家の実現は、未だ途上であり、安全保障法制如何によっては戦後70年に戻れる道が閉ざされる危惧さえ生まれようとしております。しかし、戦後70年の日本においては、一切の戦争に参戦することも、巻き込まれることもなく、戦争の世紀の残滓に満ちた国際情勢下、稀に見る平和の継続を果たすことができました 。それには、日本ひとりの努力だけではなく、国際社会の日本に対する理解と協力、そして世界最強の軍事大国アメリカ合衆国との安全保障体制の賜物であったことにも思いを致さねばならないでしょう。

4 戦後70年のメッセージの意味

終戦以来、日本国総理大臣が発する先の戦争に関わるメッセージには多岐多様な意味がこめられていました。

俗に5W1Hと申しますが、この種のメッセージは、誰がどのような立場で、誰に対して、いつどのような機会に、どのようにして、どのような意味をこめて何を、という多様性故に、受け止められ方もプラスだけではなく、理解や、誤解、疑問に満ちていることも確かであります。

そして、メッセージが公的な発信 であればあるほど、個人の尊重、体裁や体面、政治や外交上の配慮など、様々な注文がついてメッセージの内容に制約を加えられてしまいます。関係諸外国からの注文に対して、どのような配慮がなされるかに関心が寄せられることが多いのですが、多くの場合、自国のメンツとの兼ね合いがとられるこのようなメッセージには、歴史認識や、関係改善には何らプラスをもたらしません 。むしろ関係悪化や停滞を招いてしまうことが多くあります。

5 靖国神社について

先の戦争に関わる総理大臣の言動が大きな反響を呼ぶ典型は、終戦の日の談話と靖国神社の参拝問題に代表されます。

国家が存在し、国体護持される限り、将来を考えた場合、いつの日かに発生する国家のための犠牲に対する国の慰霊と個人の供養は必須であります。先の戦争では、軍事的合理性をもってさえ説明困難で誤った戦争指導を行い、自国の兵士たちを無意味な作戦に投じ死地に向かわせ、残された兵士の戦後の処遇を顧みずひとりが自殺していくという美学にはしった高級将校たちがおりました。そして、靖国神社には、戦後の東京裁判で裁かれA級戦犯とされた国を誤った指導者と、そして戦場で斃れた将兵にあって戦闘指導を誤ったもののその指揮統率の責を問われなかった指揮官と、ごく普通の兵士たちが合祀されております。

靖国神社は、他方で、大東亜戦争の聖戦化という、十字軍の美化やジハードと変わるところの無い錯誤と右傾化のシンボルとみなされることがあります。靖国神社は、70年もの間、隣国との関係悪化の原因となってきたことも確かです。それは、慰安婦、虐殺など歴史認識の齟齬から来る戦争後遺症、いわゆるPTSDに象徴される深刻な悩ましさの一つでもあります。
他方で、先の戦争との関わりを持つ神社崇敬者の高齢化現象と継承者の減少は、靖国神社や護国神社、そして陸軍墓地などの存続を支える後継者問題となっております。
慰霊、崇敬、鎮魂、顕彰、そしてあらゆる戦争に対する反省などの意義から、日本に新たな概念の戦後メッセージを代弁する施設を創設することも一案であろうかと考えます。それは、訪日する外国人も敬意を払い、尊崇を示しに訪れる、平和な世界と人類の自由のために戦って国に殉じた国民、軍人を象徴する、国際社会が共有できる施設の建設も一案であります。先の戦争との距離が遠くなる世代との交代が進む社会現象にかなう戦後政策が顕現してこそ、平和主義の本旨を申し送る戦後メッセージの発信が意義付けられていくのではないでしょうか。

6 戦後処理はいまだ終了していないという感覚

加えて戦後処理は終了したという驕りの潜在があるのではないでしょうか 。それは、慰安婦や強制労働の賠償は政府間で公的な決着がつけられたのだから、いつまでも謝罪を引きずって行くのはおかしいと思う心情であります。

侵略戦争であったから、軍事的合理性の名のもとに、国際的な法的約束に反する非人道、不条理にはしったという歴史認識も共有しなければならないでしょう。加害の側の立場を認め謝罪、賠償する要の有無を導き出すためにも、戦後の謝罪賠償の記録を一括文書として整理公開することができないのでしょうか。
加えて、日本が批准し、加盟していた「人身売買や奴隷労働の禁止」に関わる国際条約など、「戦争の名のもとに、日本が戦争法規や条約に違反した行為」の総括を行うことも歴史認識を助長することに役立つでしょう。

外国を侵略したから発生した諸々の問題は、侵略戦争を明確に認めてこなかった日本の政治的体質にも起因します。しかも、日本の戦争もまた、不戦条約、戦争法規など数多くの国際法規を批准し、条約を締結していたにも関わらず行った侵略戦争行為でありました。ですから、敗戦宣言以降に侵攻してきたソ連の北方諸島の占領やシベリア抑留、あるいは、原子爆弾投下を含む日本の主要都市無差別爆撃、大陸からの引き揚げ者に対する暴行、略奪、殺人について「道義上の問題や法規、条約違反の追求」もできないという一方通行の戦後処理も存在するわけであります。このように、現在に至っても戦後問題は、国家のレベルにおいて内外に対しスッキリとした解決を行うに至っておりません。

日中、日韓関係がその象徴です。航空機で飛べば、2時間もかからず二国間の首脳が顔を合わせることができるというのに、隣国がどうしてこのように遠いのでしょうか。断られても、断られても、北京や、インチョンの空港まで飛んで行く行動力にあふれた政治家は出てこないのでしょうか。昭和天皇がマッカーサーを自ら訪問し、偲びがたきを偲び、耐えがたきを耐えるご行為を身をもって示された鑑は政治の世界に存在しないのでしょうか。

また、止むに止まれぬ戦争への前進に、敗戦したときの自己破産の覚悟があったのでしょうか。歴史に、もしも、は禁句ですが、「耐え難きを耐え、しのび難きをしのぶ心」は戦前には無かったのでしょうか。戦後70年を振り返りメッセージする現在、集団的自衛権行使容認という戦争行為の議論には、勝利が前提となっていて、敗戦に思いが至らない、先の戦争に踏み切っていくときの無謀さを感じ取ることができると思います。また、止むことの無い与党政治家の暴論、愚考、挙動にシビリアンコントロールの危機さえ感受いたします。

ここでも、天皇制の存在と、昭和、今上両天皇が身をもって、日本の戦争がもたらした内外の犠牲に格別の心をお持ちになり、追悼と慰撫を繰り返された戦後の僥倖から、今なお続けられる両陛下の行脚に、国民と国際社会を慮る天皇の平和主義に思いを致さずにはおられません。天皇制、天皇が日本の象徴と化した戦後70年のスタートにおいて、その象徴の意味が、天皇制が平和の象徴の鳩であり、天皇が日本の平和主義の代表であったことを改めて心しなければならないことに気付きます。

7 国民が主体のメッセージ

今日の日本は、確かに高度成長期までの時代精神と異なり、その後は、失われた20年 の延長をたどっている気配があります。改めて戦後70年の初心に帰り、この国のかたちを見つめなおさなければなりません。私たちがどのような国を目指したいのか、国家のアイデンティティーを再発見すべき時期にあると考えます。そこでは、戦後70年のスタートにおいて描いた平和国家の成熟した姿を見出せるかもしれません。

国際社会が恐怖と欠乏に決別できる時代を築いていくために、日本が果たすべき名誉ある役割を見出したいものです。それが軍事による貢献か、非軍事によるものかは、閣議決定ではなく国民が決断すべき重大事であると考えます。理想の国家、社会を掲げ、努力の具体的な方向性を明らかにしていくのが政治の責任であり、国民の選択責任であります。

「国民に選ばれた自分たちが決定することに、選ばれなかった野党がとやかく言うのはおかしい」とする議論が生ずる気配を危惧致します。それは、ミュンヘン一揆で投獄されたヒットラーが民主的選挙によって再起し、ナチズムを徹底していった歴史に重ねることができるからであります。

ここで戦後70年のメッセージを発信するのは、曖昧さや建前を払拭して相互の疑心暗鬼を少しでも払拭したいという心情が勝ったからであります。従って、誰が戦後のメッセージを発信するのか、という部分は、特定の公人ではなく普通の庶民とか市民とか呼ばれている私たちの発信、即ち国民のメッセージであります。

それでは「メッセージは誰に対して発信するのか」、でありますが、特には、戦争に直接関係した内外の方々であり、国、団体、組織であります。勿論、戦争を知らない人々を含めた国際社会、国内の全てを対象とすることは言うまでもありません。

戦後70年のテーマは、先の戦争終戦後の事象が主対象であります。70年という節目には、現下の集団的自衛権行使の容認および関連法案の審議という政情の最中にあって、安全保障政策の転換点におけるメッセージという悩ましさと深刻さがあります。できるかぎり、議論中の政治問題については、賛否を鮮明にしない客観性をもたせたバランス感覚に富むものとすることが望まれます。

どのように発信するかは、発信者の意図によるのですが、この場合は、可能な限り総理談話と対称性を持たせる意図もあり、可能な限り社会全般の耳目に留まるよう作為を考慮しております。この場合、ネットワーク世界の利用が主でありますが、メデイアの協力を得られればさらに作為が実ると考えています。

総括として―戦後70年のメッセージ発信の時期が意味する重要性―

日本においては、戦争記念館が存在せず平和記念館のみが在るという、いわばトラウマの象徴があります。戦争を考えずして平和が考えられるでしょうか。戦後という言葉をつけて語る限り、戦争を経て、国の形を見出した経緯は特記すべき事象です。

PTSDを思考することが未来志向を停止させるという考えがあるとすれば、戦争が社会を変え、社会がまた戦争を変えてきたという繰り返しが人類の歴史であったことを否定こそしないまでも、今日在る国家が先人の尊い犠牲と努力の賜物であったことをないがしろにする思考と行為 であります。

期待する最大の効果 は、日本および日本の国民がとらわれている先の戦争のトラウマからの解放です。それは、今後、同様のメッセージを発信し続ける意味 を変えていくことになるでしょうし、本メッセージに限れば、戦後70年の平和主義を転換させることなく継続する時代精神を次世代に継承したい、という気持ちが働いているからにほかなりません。

また忘れてはならない社会現象には、国民が重ねてきた復興努力 があります。為政者と大企業が日本の戦後復興を担ってきたかの印象を払拭できないのは何故でしょうか。それは、おそらくメッセージの対象に一般の国民を意識することが希薄であったことによるのではないかと思います。

戦没者の慰霊を言いながらも、遺骨収集はボランティア依存で国の介入が形骸化しています。担当省庁のリーダーシップの座にあった歴代全ての大臣、副大臣、政務官が遺骨収集の現場に赴いたという話はありません。今上天皇、皇后両陛下のご訪問に先駆けた、戦場であった現場での祈りこそが、靖国参拝よりも国際社会に善きアピールを可能とするはずです。政治家が発信する戦後メッセージは形だけなのでしょうか。靖国参拝は遺族会や神社庁の票が目当てなのでしょうか。

メッセージを発信する時期の選択は、終戦の詔勅が発せられた日に、という感情をこめた意識が潜在していることを否定致しません。加えて安倍総理大臣の談話と対比させたいことからも、今をおいて選択肢がないと考えております。

何故今なのでしょうか。今日、戦後70年のスタートで誓った日本の国のかたちと、国民が抱き続けるべき努力という時代精神が忘れられていないでしょうか。政情、世情を顧みるに、先人の道しるべを何処かに置き忘れてきたのではないかと思わずにはいられません。

日本の戦後70年、今という節目は、大きな状況変化の時期に当たります。

ひとつは、戦争を知る世代の超高齢化の社会現象です。戦時の生々しい戦闘、空襲、暴行、殺戮、破壊、自決、飢餓、労役、差別など生々しい体験をされ記憶を確かとされる方々の多くは、80歳を超える年齢に達しておられます。直接の兵役に徴用された沖縄の少年兵の最年少は、当時14歳でした。第一線の戦闘機パイロットは、現在90歳以上のご高齢に達しておられます。ここには、国内外において戦争の悲惨な記憶が風化する現象が見えております。

第二は、戦争を語り継がれた戦後世代は、二回目の定年を迎える前期高齢者化しており、その次の世代は、さきの戦争が歴史年表の一行でしかないという、歴史認識と縁遠い状態に陥っているという社会現象であります。中国、韓国の学校における歴史教育では日本の侵略史の徹底と強調が行われております。一方の日本では、戦争体験によって生じたPTSDだけが引き継がれ、占領統治時代に行われた、日本人意識を希薄にするマインド・コントロールと相俟って、史実を伝える日本史教育が軽視された効果が無関心、無知という現象に顕現しております。

第三は、政治指導者に戦争体験者が皆無であるという社会現象です。しかも日本の教育制度の中で軍事や安全保障の科目は、その存在を見つけることが困難な現状であります。従って、大学で安全保障や国際関係論を選択した履修経験が無い限り、軍事を語る知見に乏しい政治家が国会の多数を占めております。この現象は、そのような国会議員に軍事のシビリアンコントロールを負託しなければならない時代を警告していることでもあります。

第四に核の問題に触れたいと思います。ヒロシマ、ナガサキは、国際社会において原子爆弾投下の象徴として人類共通の言葉となっており、それはまた人類共通の課題を表わしてもおります。
勝利国は、現在でも戦争終結のための原爆投下という正当性を主張しております。ヒロシマ、ナガサキは、ポツダム宣言を受け入れるきっかけとなり、確かに日本の敗戦を決定づけましたが、この核兵器使用は、非戦闘員20万人を一瞬のうちに虐殺した世界の戦争史上類を見ない、唯一無二の人道上恥ずべき蛮行でありました。
加えてフクシマの原子力発電所のメルトダウン事故は、日本に、戦時の核兵器被曝に重ねて、平和な時代にも核の災害を拡散させ、日本国民に対して二度にわたって核の恐怖を体験させることになりました。
今や、ヒロシマ、ナガサキに加えフクシマという言葉が、騒乱の中東に住む子供でさえ口にする原子爆弾、核汚染の英語代名詞化していることを知らなければならない時代にいるのであります。過ちは繰り返しません、という言葉は誰に対する言葉なのでしょうか。私たち日本人は、核爆弾投下と原発事故に見舞われたからこそ果たせる、核兵器、核の平和利用に関わる先駆者的役割を担い始めた今を意識しなければなりません。

戦後70年のメッセージを発信する最後の要素は、安全保障政策において、戦後70年の平和主義に徹してきた専守防衛、個別的自衛権の体制を大転換する集団的自衛権行使の容認が閣議決定され、関連法案の制定によって実効に移されるピンポイントの現状に直面しているという悩ましい政策課題が掲げられていることです。しかも国政の場では、平和主義が形骸化し、核被曝体験を歴史の片隅に追いやる風潮が作られ、集団的自衛権行使の名において積極的な戦争参戦に向かう議論が進められております。
さらには、核爆弾やクラスター爆弾という人の尊厳を損なう兵器の対米輸送支援を合法とする政府答弁が平然と行われている今日の現実は、戦後70年間の平和国家構築のために積み上げた国民の努力を、まさに政治によって反古、ないがしろにする事態を顕わしていると言えましょう。

日本は普通の国になるべきであるといわれますが、それでは、その「普通の国の普通の国民」とはどのような国民を言うのでしょうか。普通の国議論における国民不在を危惧しなければならない現実にも目を向けなければならないでしょう。その原点を忘れた大国意識だけの国連における常任理事国入りの意思は、「旧連合国の国連という枠組み」にはいっていくことにしか意味はありません。それだけでは、国益を上げることに執心し、常に先頭グループの一人として、国際社会のひのき舞台の中心に居たいと願望する普通の国でしかないと考えます。

戦後70年のメッセージは、改めてそのスタート時点に立ち戻り、敗戦とそのトラウマに陥った日本人である私たちがどのような国造りを目指すことにしたのかをまず問うことから始めました。

そしてその原点が平和国家の構築にあったこと、その象徴こそ、象徴化された天皇制であり天皇であったことを確認いたしました。

戦後70年は、国民の努力の成果として何をもたらしたのかを顧みました。平和国家建設の最大最善の成果は、戦争と無縁であった国家を、70年間維持し遂げたことにありました。しかしそれは完成まで、任重く道遠い、道程であって、70年は、節目でしかありません。今はその途上にあること、それ以上に戦後の努力にはまだ至らないものが在って、国家関係を阻害する問題が残されていることも確認できました。

ここでは、現下の国会議論の行方について触れておりません。安全保障政策の転換期を策している法制制定に対しては、国民的議論に導くべきであるというニュアンスを含めて問いかけさせて頂きました。

日本では、戦後70年の間、8月15日を終戦の日と記憶し、二度と過ちを犯さないと誓いを新たにする意思をこめてメッセージが発信されてきました。

総理大臣談話はこれらの代表とされます。しかし、過去において、総理大臣談話が国民の共感を呼び、心情を共有できるものであったかどうか定かではありません。むしろ多くは、対外的配慮に満ちており、中国と韓国を特別に意識した政治的な建前と政権色の濃い内容でした。それは裏を返せば、戦前、戦中、戦後の辛酸をなめてきた日本国民への思いやりに薄かったのではないかと受け止められるのではないでしょうか。 以上


文責:理事 林 吉永 25Aug2015

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください